話題の本【書評】(2024年9月~) - 2024.10.31
仏教で愉しく死の準備
芥川賞作家で武蔵野大学教授の著書による、現代日本人の死生観と仏教との関わりを説いたエッセイ。「私の死」とは何か、死を前にした時に我々は何を心の支えとして生きていけばいいのか、科学と仏教の重なるところに真理があるのではないか。団塊世代で自らも死を意識する年齢になった著者が、残り少なくなった人生を、仏教とともに愉しく過ごす術を綴る。(イラスト/しりあがり寿)
はじめに
死について考える
科学と仏教の接点に真理がある
第一章 生まれ、死んでゆく「私」とは何か
釈迦の教えが今の仏教になるまで
”葬式・法事・お墓”は本物の仏教か
人は死ねばただの水になる
デモクリトスの原子論と真空の発見
古代インド人はなぜ輪廻転生を恐れたのか
不可知論からの出発
老死に到る根本原因を断つには
一切は「空」であるという卓越した世界観
般若心経を読み解く
「私」という存在は「空」である
第二章 仏教が描く豊饒な死の世界
あなたもわたしも誰もが菩薩である
言葉では答えられない領域
入滅直前の釈迦の最後の教え
死ねば宇宙の胎内に帰っていく
宇宙と自己との一体感を求めて
空海が受けた一弟子相承の教え
奈良の大仏とは何か
胎蔵界曼荼羅という宇宙観
極楽浄土に往く方法
南無阿弥陀仏で死の準備
人生は一晩の影絵芝居
第三章 近代科学は「空」を目指す
「私」をどんどん分解すると何になる?
すべての生命反応は電気現象
宇宙を支配する重力と電気力
水なしでは生きられない本当の理由
水をつめた袋としての人間
DNAの百科事典を読むのは誰か
コピーの集積としてのわたし
利己的遺伝子という考え方
相対性理論が明らかにした「知の限界」
科学も仏教も「空」に行きつく
青春の日々が戻ってくる
第四章 老後は仏教で死の準備
死の準備は必要か
戒名とは何か
卒塔婆と仏舎利塔
日本古来の御霊信仰
読経というのはいいものだ
自分の死について考える
花に囲まれて死んだ西行のように
前世の釈迦の物語
仏縁によって人は生きる
仏縁を超えて主体を愉しむ
死の準備はできているか
パスカルのことば「人間は考える葦である」
死について考える
科学と仏教の接点に真理がある
第一章 生まれ、死んでゆく「私」とは何か
釈迦の教えが今の仏教になるまで
”葬式・法事・お墓”は本物の仏教か
人は死ねばただの水になる
デモクリトスの原子論と真空の発見
古代インド人はなぜ輪廻転生を恐れたのか
不可知論からの出発
老死に到る根本原因を断つには
一切は「空」であるという卓越した世界観
般若心経を読み解く
「私」という存在は「空」である
第二章 仏教が描く豊饒な死の世界
あなたもわたしも誰もが菩薩である
言葉では答えられない領域
入滅直前の釈迦の最後の教え
死ねば宇宙の胎内に帰っていく
宇宙と自己との一体感を求めて
空海が受けた一弟子相承の教え
奈良の大仏とは何か
胎蔵界曼荼羅という宇宙観
極楽浄土に往く方法
南無阿弥陀仏で死の準備
人生は一晩の影絵芝居
第三章 近代科学は「空」を目指す
「私」をどんどん分解すると何になる?
すべての生命反応は電気現象
宇宙を支配する重力と電気力
水なしでは生きられない本当の理由
水をつめた袋としての人間
DNAの百科事典を読むのは誰か
コピーの集積としてのわたし
利己的遺伝子という考え方
相対性理論が明らかにした「知の限界」
科学も仏教も「空」に行きつく
青春の日々が戻ってくる
第四章 老後は仏教で死の準備
死の準備は必要か
戒名とは何か
卒塔婆と仏舎利塔
日本古来の御霊信仰
読経というのはいいものだ
自分の死について考える
花に囲まれて死んだ西行のように
前世の釈迦の物語
仏縁によって人は生きる
仏縁を超えて主体を愉しむ
死の準備はできているか
パスカルのことば「人間は考える葦である」